I climbed Alaska’s Denali when I was 20 years old. It was my first high altitude climb. Then in 2016 after 18 years, I set out for Denali’s summit again.
Without any companions. By myself.
20歳のとき、ぼくはアラスカのデナリに登った。自分にとって、最初の高所登山 だった。そして2016年、ぼくは18年ぶりにデナリの頂を目指すことにした。
仲間と一緒ではなく、たった一人で。
アラスカ先住民の言葉で「偉大なる者」を意味する北米最高峰デナリ(標高6149m)。標高はヒマラヤの山々におよびませんが、高緯度にあるため、厳しい気象条件はヒマラヤを凌ぐともいわれます。
1998年、当時20歳だった石川直樹は遠征隊の一員として、デナリに登頂しました。初めての高所登山で体は極限まで疲弊し、6000mを越える高所の厳しさについて身をもって実感することになりました。この遠征を皮切りに、石川は海外の山々を次々と旅するようになります。デナリは、石川にとってその後の活動への扉を開いた、いわば原点ともいえる山です。
2016年、石川は18年ぶりに再びデナリに向かいました。これまでのヒマラヤ遠征と異なり、今回は単独行を選びます。装備や食料の選定、荷上げや移動、天候の判断も含めてすべて一人で行なわなければならず、激しい雪と風に翻弄されながらも、どうにか二度目の登頂に成功しました。石川が「重ねてきた経験が無駄ではなかったことに誇りを感じた」という、2016年5月27日~6月12日のデナリ単独行において撮影された写真が本書に完全収録されています。
写真集
DENALI 石川直樹
仕様:H178mm×W153mm
88ページ/ハードカバー
COLOR: Bluish/Yellow
ISBN:978-4-907487-10-2
デザイン:田中貴志
定価:2,200円+税
石川直樹「DENALI」出版記念展
会期:2016年10月31日(月)─ 11月6日(日)
会場:森岡書店 銀座店
住所:東京都中央区銀座1-28-15鈴木ビル1階/03-3535-5020
時間:13時〜20時
石川直樹/Naoki Ishikawa
1977年東京生まれ。写真家。東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。人類学、民俗学などの領域に関心を持ち、辺境から都市まであらゆる場所を旅しながら、作品を発表し続けている。『NEW DIMENSION』(赤々舎)、『POLAR』(リトルモア)により、日本写真協会新人賞、講談社出版文化賞。『CORONA』(青土社)により土門拳賞を受賞。著書に、開高健ノンフィクション賞を受賞した『最後の冒険家』(集英社)ほか多数。最近では、ヒマラヤの8000m峰に焦点をあてた写真集シリーズ『Lhotse』『Qomolangma』『Manaslu』『Makalu』『K2』(SLANT)を5冊連続刊行。最新刊に写真集『国東半島』『髪』『潟と里山』(青土社) 、『SAKHALIN』(アマナ)がある。
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朝になっても天気は崩れていなかった。早いうちに出発すればよかったのだが、単独だとつい気持ちがゆるんでのろのろしてしまう。他の数隊が出発した後、自分も最終キャンプを発った。テント内に、寝袋やマット、余分な食料を残し、頂上に向かうためにぼくはテントを出た。
まず長大な斜面を左にトラバースしていく。登りはロープなしでこなせると思うが、ロープの確保なしで、ここを無事に下れるだろうか、と考えてしまう。デナリは標高こそヒマラヤの高峰におよばないが、北極圏に近い高緯度にあるため、気象条件は過酷そのものだ。登山史に名を残す植村直己や山田昇といった人たちは、この少し上で風に飛ばされるなどして命を落としている。下りの危険を考えると憂鬱になるが、単独でここまできた以上、仕方ない。
長いトラバースを終えて右に曲がり込むと視界が開け、デナリパスと呼ばれる場所にでた。そこから稜線上を登っていくと、徐々に高度感が出てくる。登りはアイゼンの前爪を蹴り込んで登ればいいが、下りは…とまた考える。しかし、ここまできて引き返すという選択肢はない。
とにかく登って登って登りまくれ。自分にそう言い聞かせ、先行していた四人のイタリア隊やそれ以上の人数で連なっていたメキシコ隊を追い越した。やがて、今日の先頭を行く三人のアメリカ隊の後ろにつく。いくつか斜面を越えながら、最後にはアメリカ隊も追い越し、ぼくは一人トップに立った。これより先、頂上までのあいだに人は誰もいない。自分の中にある山への畏れよりも、嬉しさのほうがわずかに上回り、高揚する。
こんなに上部まで来たのに、雪のついていないむき出しの大きな岩があった。それを左に見ながら、さらに進んでいくと、目の前に巨大な壁が現れた。最後の登りである。これを登り切って稜線に出れば頂上は目前だ。
そんなときに雲が出始めた。頂上稜線の後ろから、天に向かって猛烈に雲が吹き上げてくる。雪面を駆け抜ける風が見る見るうちに強まる。体感気温が下がってきたので、ザックから羽毛服を取り出して、ジャケットの下に着込んだ。雲は途切れなくわき上がり、上空から覆い被さってくる。「まずいな」と思っていると、あたりが白くなり、雪も吹き付け始めた。そして視界がなくなった。
待っていても、天候回復の兆しはなく、行くしかない。最後の斜面にとりつくところに、小便の跡を見かけた。昨日の登頂者だろうか。わずかな踏み跡をたよりに登る。ようやく稜線に出た頃には、目も開けられないような吹雪になってしまった。直立していると危ないので、前屈みになりながら稜線を進む。この稜線上で飛ばされたらおしまいだ。「慎重に、とにかく慎重に」と自分に言い聞かす程度の余裕はあった。
細い稜線を歩く。遠くに頂上が見えていれば距離もわかり希望ももてるのだが、真っ白で何も見えないと当然不安になる。いつ着くのか、まだ着かないのか。激しい吹雪のため、たどっていた踏み跡も消えてしまった。やがて後ろからイタリア隊が追いついてきた。先頭の男に背中から声をかけられる。
「頂上までどのくらいなんだ?」
こっちが知りたいくらいだ。「知らないよ」と答えると、彼らはその場所から引き返してしまった。頂上まであとわずかだというのに、吹雪で身の危険を感じて引き返すという判断は天晴れと思うが、自分にはできない。ここまできたら行くしかない、それしか頭になかった。
頂上には杭が刺さっているはずだ。18年前もそうだったし、最近登頂した登山者の写真にも写っていた。が、踏み跡も消してしまうような吹雪である。もしかしたらあの杭も雪に埋もれて見えないかもしれない。杭が見えずに頂上を通り過ぎてしまったのか。そうも思った。
一つのこぶを越え、二つのこぶを越える。いくらなんでもこのあたりで頂上に着かないとおかしくないか。そう思ったとき、何メートルか先に杭が見えた。頂上に着いたのだ。二度目の頂だったが、横殴りの雪と灰色の空しか見えなかった。
結局、イタリア隊とメキシコ隊は引き返し、アメリカ隊だけがぼくの後を追って頂上に到着した。登頂した彼らの一人にカメラを渡し、杭の横で自分のことを撮影してもらう。頂上での写真は、そのまま登頂証明になるから、必ず撮っておかねばならない。ぼくもアメリカ隊からカメラを渡されて、三人の写真を撮影した。
18年前のデナリ登山は、自分にとって初めての高所登山だった。ぼくの体は極限まで疲弊し、高度障害で顔をむくませ、眠気と戦いながらどうにか頂上に立ったのを覚えている。あのときは這う這うの体だったが、今日までの間にぼくは何度もヒマラヤに通い、経験値をあげた。一人でこの頂に立てたことで、今までの遠征が無駄でなかったことを誇りに思う。
天気は相変わらずだったが、帰り道は不安が払拭されて少し気持ちに余裕がある。黙々と下った。心配した下りだったが、案外ロープなしでも下れるものだ。それでもいつも以上に慎重に下った。
頂上稜線でのあの強い風を思い出し、最終キャンプに張ったテントが飛ばされているのではないか、と心配していたのだが、ぼくの小さな黄色いテントはそこにあった。20時、テントの中に潜り込んで一息つく。もう食料もほとんど残っていない。
二時間ほど休憩し、22時に意を決してテントを撤収する。荷物をパッキングしてさらに安全な4300メートルのキャンプに向けて、下りにかかった。もちろんこんな時間に下るやつもいないし、登ってくるやつもいない。孤独なくだりを続けていくなかで、4500メートルのコルで、鳥を見かけた。このあたりには登山隊が食料などを埋めているので、それを漁りに来たのかもしれない。ようやく出会ったもの言わぬ生き物に励まされる。
ウエストバットレスという最後の斜面を下る頃にはスタミナが尽き、足首も悲鳴をあげていた。何度も立ち止まり、ようやく4300メートルのキャンプ地に帰り着いたのは夜の0時前後だった。そこでまたテントを立てねばならない。自立するタイプのテントなのをいいことに、ぼくはペグを打ち込むのも放棄した。風も吹いていないし、自分が潜り込めばその重さでテントが飛ぶことはないだろう。寝袋に潜り込むと、ようやくほっとした。一人でデナリに登れたこと、そして安全な場所に帰ってこられたこと、その安堵感が何よりも幸せだった。腹も減ったし、体の全部を使い果たしてもう動けないが、ぼくは満たされていた。わずか二週間の登攀が、ここまでの充足感を与えてくれる。
だから登山はやめられないのだ。
- 石川直樹 -